【テレビドラマ】最後から二番目の恋 第1話
この週末は時間を持て余したので、Netflixで『最後から二番目の恋』を一気に見た。テレビ放送時から気になっていたドラマだったものの、当時20代だった自分にはまだ観るには早い“アダルト向け”の作品だと思ってスルーしていたが、めちゃくちゃ名作じゃないか!
何が素晴らしいって、まずは主演の二人がドハマりである。鎌倉市の観光推進課で働く長倉和平(50歳)を中井貴一が、テレビ局でドラマプロデューサーとして働く吉野千明(45歳)を小泉今日子が演じるのだが、とにかく彼らの演技が見事なのだ。和平と千明が、それぞれに年齢を重ねるなかで、築き上げてきた価値観や自信、背負ってしまった責任、そして心の中で大きくなっていく寂しさや将来に対する不安。それらを、中井貴一と小泉今日子は、まるで彼らにあて書きされたのではないかと思うくらい自然体(に見える)の演技の中で、表情・姿勢・発声で見事に表現している。それはもう、役ではなく人間・中井貴一と小泉今日子から、にじみ出てしまっていると言ってしまってよいレベルだ。
印象的な台詞やシーンが数多く生まれたドラマではあるが、第1話初っ端のシーンがとにかく素晴らしい。もうスタッフの気合がビンビンに伝わってくる、ドラマ史に残るオープニングだ。千明のモノローグに重ねて、このドラマの主要な登場人物5人がそれぞれに過ごす、クリスマスが目前に迫ったある夜の風景がつむがれていくのだが、ぜひ紹介させてほしい。
<千明モノローグ>
大人になれば 寂しく思ったりすることなんて
なくなると思っていたのに まったくそんなことはなかった
いつか穏やかで 心に余裕があるような
ステキな大人になりたいと思っていた
でも 年はとっくに大人になっているはずなのに
思っていたのとは全然違っていて
でも それはわたしだけではなく みんな同じなんだと思う
不安だし寂しいけれど それを口には出さず
明るく笑い飛ばそうとしていた
それが大人になる ということなのかもしれない
でも 寂しくない大人なんているだろうか
不幸せだから寂しいのではなく 寂しいから不幸せなわけでもない
人は一人で生まれてきて やがて一人で死んでいく
つまり人生ってやつは もともと 寂しいものなのかもしれない
<シーン>
吉野千明(小泉今日子)は、仕事のトラブルの電話に苛立ちながら煙草をカートンで買い、同じ40代の女友達とのディナーに向かう。そのディナーの場で、彼らにクリスマスイブを一緒に祝う相手(家族)がいないことがさらりと紹介されるとともに、飼い犬や古民家といった小ネタで、彼らの抱える寂しさが示される。
長倉和平(中井貴一)は、会社の部下からの建前上の呑み会の誘いを断り、一人娘のもとに早く帰ろうとする。だが、家で待つ娘に買って帰るものがあるか電話でたずねると、反抗期の彼女にはそっけない態度をとられてしまう。そして帰り道にばったり会った呑み会へ向かう途中の部下との会話から、妻と死別したことが明かされる。その後には、トイレットペーパーを片手に抱えながら、洗濯用洗剤を選ぶ和平の姿が映し出され、彼に生活感と哀愁が一気にまとわされることになる。
夫とも息子ともコミュニケーションがうまくいっていない水谷典子(飯島直子)の姿は、ヒッチコックの裏窓のような手法で、彼女たち家族が暮らすアパートの窓の外から俯瞰で撮影され、その演出によって家族という共同体 の閉塞感と息苦しさが描かれる。
長倉新平(坂口憲二)と万里子(内田有紀)の双子の兄妹も、なにやらミステリアスな雰囲気を漂わせつつ、彼らが背負う “何か” がその中にきちんと忍びこまされている。
8分間に渡るこのシーンは、すべての画が綿密に設計されていて、異常に情報量も多く、登場人物たちの性格やバックグラウンドが説明臭くならずに見事に詰め込まれている。そして、登場人物たちが抱える “生きていくことの寂しさ” を、情報ではなく情緒として視聴者の心に染み込むように届けてくれてもいる。
脚本、演技、演出の技が冴え渡るウェルメイドな映像表現なのだが、忘れてはいけないのが、このシーンをより切なく深みのあるものにしているのは、何よりも千明のモノローグを語る小泉今日子の声であるということだ。彼女のナレーションは、同じくフジテレビの『ザ・ノンフィクション』でも耳にしたことがあるが、それも素晴らしかった。中井貴一も、そういえば『サラメシ』のナレーションでまさかの大活躍を見せている。
また、このシーンでは、この後も印象的な場面でたびたび使われる劇盤の「Always」(平沢敦士作曲)が使用されており、悲しさと暖かさが同居したブルージーな名曲で、このドラマの登場人物たちやテーマにそっと寄り添いながら、私たちの琴線をやさしく撫でてくれる。
千明のモノローグについては、その中で多用される「でも」が、一見成熟しているように見える大人のなかにある “理想/現実” “覚悟/迷い” の揺らぎを表している。しかし、もしもその「でも」が、モノローグの最後を締めくくる「つまり人生ってやつは もともと 寂しいものなのかもしれない」という台詞の後に来たらどうだろう?
脚本家の岡田惠和は、これからの物語を通じて何かしらの「人生は寂しい。でも・・・」を、千明に提示し、彼女を救ってあげるのだとわたしたちに、こっそりと宣言しているのだ。
そして、その「でも」の後に続く言葉は、結婚や恋愛がハッピーエンドという旧来の価値観が金属疲労を起こし、ガタがきてしまっている現代に生きながら、それでもその古い価値観の呪いから解放されることができず、唯一の抵抗が “諦めること” か、自虐を含んだ “擦れること” になってしまいがちな、われわれにとっても救済の言葉になるはずだ。千明はわれわれの鏡なのだから。
ね、最高にロックでロマンチックなオープニングでしょう?